【バカロレア哲学】模範回答(まとめ)

こんばんは!

突然ですが、これまでのバカロレア哲学試験の解答の鍵と模範解答の訳をまとめた記事を書こうと思います。新しく翻訳するごとに記事を書くのもいいと思うのですが、まとめたものも作った方が、読みやすいんじゃないか?ということで!

 

2016年度科学系バカロレア哲学科目

問題:Travailler moins, est-ce vivre mieux? 

「より短い時間働けば、より良く生きられるのか?」

 

■ 論題の定義付け

「より短い時間働く」とは

・「働く」という語は、「拷問の道具」を意味するラテン語に由来している。そして、それを語源とする「労働」という単語は、「人間の必要を満たすために、物事をより便利になるように変える全ての活動」を意味している。また、語源であるラテン語は、努力と困難、また労働によりもたらされる苦しみを表している。

・この広い意味での定義は、極めて限定的である社会的な定義とは異なる。社会的な定義では、「働く」とは「報酬がともなう、またはもたらされる職業または雇用」を意味している。

・「より少なく働く」ということは、「より短い時間働く」ということであり、量的な観点から労働を捉えるということである。

 

「より良く生きる」とは

・「生きる」とは単に生き延びること、つまり生物学的な生命活動とは異なる。「生きる」ということは、ただ単に生命を維持し、それを可能な限り伸ばすということではない。質的な観点から、生きるということを考える必要がある。

・「より良く生きる」という表現は「より」という比較表現を含んでいる。 私たちがより少なく働いたとして、何をもって私たちの生活はより良くなっているといえるのだろうか?良い人生の基準とは何なのだろう?

 

■ 問題提起を明確にして、構成を組み立てる

問題提起

・労働の質と人生の質の関係こそが、このテーマによって問いかけられている問題であり、問題提起はこの部分から生じている。

・労働と人生は互いに相容れないのか、それとも両者は両立することができるのかということが問題提起に当たるからである。

 私たちが働くことに費やす時間は、生物として生きるのに必要なことのために犠牲にしている時間に過ぎず、より良く生きるためにはできる限りこの時間を短くしなければならないのだろうか?

 しかし、何をもって労働の時間は人生に含まれない時間、または悪い人生を送っている時間となるのだろうか?働いている時間は、自己実現のために役に立たないのだろうか?

もしそうでないとしたら、人生において労働時間を減らすことは、どのような点で私たちをより幸福に、またはより自由にするのだろうか?

 

解答の構成

・まずはじめに、より良く生きるためには必ず働かないといけないのかを検討しよう。労働は人間の本質ではないのだろうか?

・次に、人間的な生活を送るためには、なぜ労働時間を減らさないといけないのか?ということについて検討しよう。

・そして最後に、より良く生きるということについて考える時、なぜ私たちは労働と人生を分けて考えることを拒否するのか?について検討しよう。

 

気をつけるべきポイント

「労働」という言葉の定義を、社会的な定義だけに限定しないよう気をつけよう。この問題は、「労働」をより広い意味で検討するよう問いかけているのだ。

 

             (以下模範回答) 

【イントロダクション】

 ここでは、労働の量と我々の人生の質の関係について論じていく。

 「働けば自由になれる」アウシュビッツ収容所の門には、この標語が掲げられていた。

 しかし、本当に働けば良い人生が待っているのだろうか?

 「労働」とは、自己の成長につながる努力を伴いながら、自分自身の外に存在するものを変えていく行為である。今日の労働は「生産的な労働」と呼ばれており、生産性の向上を目的とした分業によって成り立っている。

 生きるとは、ただ単に生き延びることではない。生きるとは、良い人生を送ることであり、人生を質的な観点から捉える必要がある。

  しかし、何を持って我々の労働時間は、我々がより良く生きることを妨げているといえるのだろうか?我々が労働に費やす時間は、人生に含まれない時間なのだろうか?あるいは、「悪い」人生を送っている時間なのだろうか?労働に費やす時間を減らすことで、我々の人生は良くなるのだろうか?それとも、労働の量と労働に対する我々の要求の度合いを変えた先に、より良い人生があるのだろうか?

 ここでは、このことを明らかにするよう問いが投げられている。

 以上のことから、まずはじめに、より良く生きるためには必ずしも働かなければならないのか?つまり、労働は人間の本質ではないのか、ということについて考察する。

  次に、人間的に生きるということを目的とした場合、なぜ労働時間を減らすことに繋がるのか、ということについて検討する。

 そして最後に、より良く生きるということについて考える時、なぜ我々は労働と人生を分けて考えることを拒否するのか、その理由について考察する。

 

【本論】

1. 働くとは、つまりより良く生きることである。

  A. なぜなら、生きるためには働かなくてはならないからである。

 まずはじめに、より良く生きるためには、より長い時間働く必要があると考えることができる。これは、社会的及び生きるために必要不可欠な欲求を満たすための能力と豊かさによって、我々の人生の質は決められるからである。

 我々の人生の質を快適さとした場合、より長い時間働き、より多くの収入を得るほど、労働の時間の外で「快適な人生」に近くことができると考えられる。 

 しかしながら、労働によって手にいれる収入は、労働に費やす時間とは全く関係がないと言わざるをえない。

 しかしその一方で、より長い時間働きその分自由な時間を減らしている人は、より長く自由な時間を持つ人以上に、より良く生きていると言えるのだろうか?人生の質は、プライベートな時間を犠牲にしているという自己満足と、混同されなくてはならないのだろうか?

 B. なぜなら、労働とは人間の本質だからである。

 実際には、「良い人生」の定義を検討する必要がある。

 労働の時間外でしか享受できない人生とは一体何なのだろうか?労働が「良い人生」の条件とされた場合、良い人生というのは金銭的に贅沢なものではなく、人間的なものでなくてはならない。これは、マルクスが著書『資本論』の中で「労働は人間の本質である」と書いていたとおりである。

 労働が人生を捧げることに値するとすれば、それはただ単に生物学な生を全うすることから抜け出し、人間らしく生きる場合に限るのである。人間的な能力を発展させながら、労働を通じ努力と創造性を手にすることで、我々は自らの外と内に存在する自然に立ち向かい、より人間らしくなっていくのだ。

 言い換えると、より長時間働くほど、我々は動物的な生活から遠ざかり、より人間らしくなるのだと言える。労働とは、働きたいという欲求、すなわち人間の本質を実現したいという欲求を満たす行為なのだ。

 

【展開】

しかし、もし労働が良い、あるいは人間的な人生であるなら、マルクスの『経済学・哲学草稿』(1844)の中の「物理的またはその他の制約がなくなったとき、労働は疫病神のように恐れられる」という記述は、どのように説明することができるだろうか?

Annabac 2017 Philosophie (c) éditions Hatier, France より

というわけで今後は

・新しい更新分の記事

・まとめ記事の更新

の両方を並行して書いていきたいと思います✨

 こちらの方が読みやすいかなぁ?と思って実験的なのですが。

今後も宜しくお願いします!✨

つづく🎍